カンダチメ史學手習

kandachime11の日本史関係のブログ。博物館などいろいろ。

ニューイングランドの雪、図書館へ続く道

自分が住んでいるこの小さな箱の外に世界があることを、あの日、あの雪道で、はじめて理解したのだった。

 

 

 大学入学2週間にして、行き詰まる

大学で日本史を学ぶことを志してから5年、晴れて史学科に進学した私だったが、入学したらしたで、恐ろしいコンプレックスが待っていた。

 

最初のコンプレックスは、周囲のレベルの高さだった。私の将来設計は「大学に進学すること」で止まってしまっていたので、そのままなし崩しに大学に残り、歴史学者になろうと思っていたのだが、周囲のレベルの高さに入学後最初の1週間で恐れおののいた。これでは無理だろうというのが結論だった。

 

そうなると必然的に大学卒業後は外の世界に出なければならないということになるが、すると今度は、学歴コンプレックスに苦しみ始めた。

史学科進学という夢は叶えたものの、自分自身、大学受験は大失敗しており、大学名だけで周囲がひれ伏すような大学ではなかった*1*2し、自分には日本史以外、コミュニケーション能力とかなんとか、何ら付加価値がないことは痛感していた*3

 

やばいな、これ。と思ったのを、よく覚えている。

……入学してものの2週間足らずのことである。

 

海外逃亡

4月は、新入生向けのオリエンテーションの季節でもある。

早速自暴自棄になっていた18歳の私は、とりあえず何か悩みの解決案を求めて、オリエンテーションの類に手当たり次第に出席した。

その中で出会ったのが、短期留学の話だった。行先はアメリカの、聞いたこともない片田舎だった。

 

当時私は、海外に出たことがなかったどころか、飛行機に乗ったこともなかった。今に至るまで実家暮らしなのだが、関東にある実家を離れた最長記録は修学旅行の3泊4日で、距離でいっても、同じく修学旅行の京都が最長だった。

合宿のある部活動ではなかったので、修学旅行と親の帰省以外は、そもそも家を空けたことそのものなかった。

そして何より、私は英語が苦手だった*4

 

だが、当時の私は5年間温めていた、大学入学後の華やかな未来というビジョンが打ち砕かれたこともあって、はっきり言ってしまえば正気を失っていた。

大学進学時に親に渡された学資金と奨学金で金勘定したところ、短期留学するお金は確保できていたという点と、偶然学内の選抜試験で悪くない成績を叩き出したこともあって、翌年の初春に留学することが決まった。

勿論その間ずっと狂気だったわけではなく、途中で事の重大さに気づいたし、「日本史学を学ぶ者として、留学は無駄にしかならない」と同じ学科の友人たちから反対されたこともあって、何度か辞退したくなったが、辞退を言い出す勇気もなく、あれよあれよという間に出立の時を迎えてしまった。

 

今になって思えば、あれは、大学生が陥りがちな”留学すればなんとなかなるんじゃないかドリーム”の一種だったと思う。

ただ、普通の大学生が自分探しだとか理由をつけてインドに行ったりするのと違って、大義名分になりそうな目的すらなかった。言わば、海外逃亡のようなものだった。

 

雪原を往く

そして私は、アメリカにやってきた。

ありがたいことに同じ大学の仲間がいたので、英語力が著しく欠落している点は、なんとかカバーできたし、度胸もついた。

 

私の留学先はニューイングランド地方だった。折しも厳冬の季節で、外は連日大雪である。この雪というやつとて、こんなに積もっているのは初めて見たぐらいだった*5。飛行機も時差も、日本語が全く通じない環境も、全てが初めてだった。

 

自分の知識の軽薄さにも傷ついた。自分が最も得意であるはずの日本史について問われ、私が答えられないでいるうちに、他学部だが日本史も好きという仲間が、騎士(knight)と武士の違いを例に挙げて説明しているのを見て、英語力ではなく、もっと違うところで敗北を悟った。

史学科という肩書そのものには大した意味などないということもこの時痛感したし、一方で、自分はただひたすら誰にも理解できないものを研究し続けたいのではなく、研究して得たものを人に伝えたいと思っているということを悟った。そういう意味では、學ものが日本史学であろうと、留学経験は無駄にならないと思っている。

 

だが、何よりショックだったのが、味方であるはずの仲間たちとの経験値の違いだった。彼らはほぼ同世代ながら、様々な経験をしていた。飛行機に初めて乗ったのも私ぐらいのものだったし、なんだか自信に満ちているように見えた。それがとてもつらかった。

 

そんなある日――転機の朝がやってきた。

 

何故か早起きした私は、突然留学先の大学の散策をしたいと思い立った。

外に自由に出ることは禁止されていたが、広い大学構内は自由に歩くことが認められていた。しかし、元々単独行動などしたことのない私は、だいたいこういう早起きした朝も、誰かが起きてくるまで引きこもっていたのだ。

駄目だったら来た道を戻ろう。授業に遅れなければ、怒られるまい。そう思った私は、前から気になっていた図書館に行ってみることにした。雪原をひとりで通り抜けるのだが、本当に誰もいなくて、不安になった。もしここで突然行き倒れたらどうしようとか、迷子になったらどうしようとか、そういうしょうもないことをずっと考えていた。

 

あれこれ考えたが、結局図書館にちゃんとたどり着いた。距離にして数百メートル、大した旅ではなかった。

 

広い図書館だったが、日本史の本は見たところ1冊しかなかった。とりあえずそれを開いて熱心に読んだことを覚えている。本の内容のほとんどが近現代史だった。私は中世史が専門だったのでいささか落胆したが、「これがアメリカ人の思う日本史か」と変に納得した。

それが始まりだった。

 

帰国した私は、ひとりで歩ける人間になった。心の望むままのひとり旅も辞さなくなったし、飛行機にもひとりで乗れるようになった。道に迷ったら人に訊けばいいし、きちんと準備さえできていれば、どこへでもゆけるということに、初めて気づいた。

自分が住んでいるこの小さな箱の外に世界があることを、あの日、あの雪道で、はじめて理解したのだった。

 

その後も色々あったが、思えばあの日が、 #わたしの転機 だったように思う。

 

*1:これは後で気づいたことだが、そんな大学、実は存在しない。

*2:仮面浪人するという道も考えたが、経済的に困難だということ以前に、そんな気力は残っていなかった。

*3:史学科に多い進路として、教員免許を取得し教員になるという道があることも知っていたが、自分にそんなに熱意がないことや、家族に反対されたこともあって、選択肢になかった。

*4:今も苦手だが。

*5:後に3月上旬の札幌に旅しているのだが、だいたいそれと同じぐらいだった