昔、君がいた街に。
今週のお題「私のアイドル」
アイドルとは、「偶像」「崇拝される人や物」「あこがれの的」「熱狂的なファンをもつ人」を意味する英語(idol)に由来し、文化に応じて様々に定義される語である。
アイドルがいる人といない人
少なくとも私が専攻としていた日本中世史というのは、「人物」に憑りつかれて専門にしてしまった人が少なくない。例えば織田信長とかがそれである。そしておそらくこれは私の推測だが、幕末付近もそういった動機の人が少なくないのではないだろうか。
ところが私は、特にそういった人物に焦点を当てた研究はしていなかった。もちろん専門の中の専門というものはあったし、卒業論文の中ではいくらか個人名も出したが、別にその人に対して強い愛着はなかった。思えば、昔から無かった気がする。
ちなみに実は好きな俳優さんやアイドルというのもいない。贔屓の力士や野球選手はいないことはないが、球場にも場所にも足を運んだことがない。きっと世の中にはそんなタイプの人間もいるのだろう。
昔、君がいた街に。
実は大学時代の、特に卒業論文のテーマを決めるまではこの点について、至極真面目に悩んでいた。周囲は熱狂的な愛着から「私は大谷吉嗣の研究をする」とか「俺は豊臣秀長とその周辺について調べる」とか、「六角氏のことは僕が一番詳しい」とか、そういうことを一丁前に言ってくる。
ところが私にはそういったものがないので、だんだん自分が不安になってくる。好きなものがないわけではないが、いかんせんそれが人間とか地域とかではないので、理解者はほぼ皆無という状態だった。不安にもなるわけである。
その頃私は、中世の京の大飢饉について調べていたのだが、夏に史学科でない友人を連れて京都を訪れた*1。夜、はじめて京都タワーに登り、京都の街を眺めていたのだが、ふと自分がこれまで調べてきたことを思い出した。
かつてこの街には、飢饉で亡くなった4万を超える死者が転がっていたこと、そして彼らひとりひとりを弔うために「阿」の字を書いて回った僧侶がいたこと、あるいは多くの戦乱があったこと、その他諸々である。
途端に私は胸が熱くなり――そして自分の内側には、こんなに胸を熱くするものがあるのだということに気づき、嬉しくなった。
私は別に、過去と比べて現代が平和で、それらは過去の人たちの犠牲の上に成り立っていて……と言いたいわけではない。
確かにそれもまた重要な事実であろうが、その時の、とにかく悩んでいた私が気づいたのは、自分は人間に興味がないわけではなく、興味の幅が大きすぎて、それが特定の個人に向いていないというだけである、ということだった。
歴史は、人間の営みの上に成り立っている(と、私は考えている)。それはある一面においては名前のある英雄の物語だが、他方で"名もなき"と形容される人々の群像劇でもある。
冒頭で挙げた"アイドル"の典型例である織田信長についても、果たして小説やゲームでよく語られているような苛烈で突飛なカリスマの塊だったかどうかは分からないし、そもそも人間というのはこれを書いている私自身も含めて、ひとことで形容できないぐらいの多彩さを内に秘めているのだから、ある人間のある一面だけをその人間のすべてだと考えることはできない。
というわけで、ひとりの日本史マニアの私にとってのアイドルは、過去生きていた人の営みそのものだった、ということで。